母が認知症になってしまったこと、仕事を辞めたいことを社長に話をしたのがある週の頭。
病院で母が認知症の診断を受けてから10日ほど経過した頃合いだった。
その間、私なりに色々と考えて出した結果が、在宅で仕事をしながら母の様子を見ること。
在宅でも仕事ができる職業だったのが幸いした。
学生時代は、なんとなく高校を卒業して、なんとなく大学に行ってと、将来のことはあまり考えない生徒だった。
就きたい職業も夢もない、そんなふんわりとした思考で生きてきた私は、自分の未来にリアリティを感じれずにいたのだ。
それでもアルバイトはたくさんした。
ファストフードに始まり、レストランのウェイター、ガソリンスタンド、ノベルティグッズにシールを貼るだけの仕事、カラオケ店等々、そのどれもが退屈で将来へのヒントにすらならなかった。
それでも、どうせアルバイトをするなら好きなことをと、好きだった本や雑誌に関係するアルバイトはないかと探してみる。
あるとき、求人の載っているタウン誌に目を通していると、そのタウン誌を制作している編集プロダクションが学生アルバイトの求人を出していたのが目にとまったのだ。
雑誌の編集とは一体なにをするのか、どんなものなのか全く知識のないまま、その編集プロダクションに電話をかけた。
電話に出たのは男性の方で、アルバイト求人を見て電話をかけたことを伝えると、その男性は驚きと喜びが混じった声で「おぉっ」と言ったのを今でも覚えている。
「すぐにでも面接して欲しいけど、いつ来れそうかな?今日でも明日でもいいんだけど、できれば早いほうがありがたい」
あまりの急展開に慌てて自分のスケジュールを思い出す。
「あ、明日の午後なら…」
「オッケー、明日の午後なら誰かしらいるから大丈夫。うちで働く気で来てくれて構わないから、あ、面接してみて働きたくないと思ったら正直にそう言ってね。大事なのはあなたの気持ちだから」
私がどんな人間性なのかもわからずに、ほぼ採用前提で話をしている流れが少しだけ怖かったけど、雑誌の編集ってなんかカッコいいかも、なんて呑気なことを考えていたのも確かだ。
次の日、大学の講義が終わって、その足で面接に向かった。
講義中に書いた写真の貼っていない履歴書を持って、面接をする編集プロダクションの扉を叩いた。
面接をしてくれたのは昨日電話に出た方ではなく、女性の方だった。
仕事の内容は、ライター兼編集アシスタント。
あらゆるお店へ取材に行き、写真を撮ってその店の紹介文章を書く。
編集領域ではデザイナーが上げてきたデザインデータの微調整、場合によっては文章の流し込み、校正まで行うという。
企画会議に出れるなら出て意見も欲しいとのことだ。
このときの私には説明された仕事内容がチンプンカンプンだったのだが、なんとなく楽しそうだなという前向きな気持ちと、あまりに内容が理解できなかったので、大きな不安を同時に抱いていた。
「どうですか?北原さんに会って悪い印象は全く受けないし、真面目に取り組んでくれそうなので、ぜひ働いて欲しいのだけれど。もし今説明した仕事内容が無理だと思ったり、今ここにいて会社の空気感とかが合わなそうだなって思うならもちろん無理強いはしないので、遠慮なく断っても大丈夫ですから。考える時間が必要ならじっくり考えてから結論を出してくださいね」
採用か不採用か、後日にわかるものだと思っていたので面食らったというのが正直なところ。
「お仕事内容が全然理解できなくて、私にできるかが不安です」
私は正直に不安を伝えた。
「それは、やりながらちょっとずつ覚えていけば問題ないので。むしろ嫌だなって感情があるかないか、直感的でもいいから、なんとなく楽しく働けそうだなって思ってくれたらうちでアルバイトして欲しいなって思います」
私はふとオフィス内を見渡す。
書類やら雑誌やらで散らかって埋もれたデスクの数々。ボサボサの頭で電話をしている人、埋もれかけたデスクに突っ伏して寝ている人、出力したデータをじっくりと見ている人、虚空を見つめながら考え事をしている人、漂うコーヒーの匂い。
なんかいいな、こういうの。
「むしろ、私でよければお願いします」
それは直感だった。なんとなく楽しそうとか、なんとなくワクワクするとか、何が決め手なのかをはっきりと言葉にはできないけれど、それでもここで働きたいと思った。
「ありがとう。歓迎します」と微笑む面接担当の女性。
「よろしくお願いします!」と私は大きな声で答えた。
こうして編集プロダクションでアルバイトをすることになった私は、この仕事がきっかけとなり、その延長線上に今の仕事があるのだ。
そういう意味では、私の人生を変えてくれた会社、仕事との出会いだったなと、この編集プロダクションには今でも感謝している。
このアルバイトで、雑誌編集の「いろは」を学んだ私は、大学卒業とともにそのままこの会社に就職した。
それから3年ほど経った頃だ、デザイナーさんが上げてくるデザインを手直ししているうちに、自分でデザインを起こしたいと思うようになって、社長に相談した。
小さい会社だったので、会社で抱えているデザイナーは一人だけで、手が回らない場合は社外の外注デザイナーにデザインをお願いしていた。
とは言うものの、実際はほぼ年中デザイナーの手が足りず、常時外注デザイナーさんに仕事を振っているのが常態化していたのだ。
社長はデザイナーの外注費が嵩んでいることで、社内でデザイナーを増やそうかと思っていたらしい。
私からの申し出はまさに渡りに船だったのだ。
こうして編集の人員を増員して、私はこの会社でデザイナーへと転身させてもらうこととなった。
編集の仕事をする上で使用するデザインソフトは概ね操作できる。
そして高度なテクニックを身につけながら、デザインの基礎知識を頭に入れ、先輩デザイナーに色々と教わった。
最初は編集の仕事とデザインの実務を半々でこなしながら、デザインスキルが一人前になったころに、デザイン専属とさせてもらうことができたのだ。
そこからまたさらに数年後
会社でまるまる制作を手掛けていたタウン誌のWEB版を作るという話が版元からきたそうだ。
しかし紙媒体オンリーで戦っている我が社ではWEB制作のノウハウはない。
そして、WEB版は他のWEB制作会社にお願いすることになったと版元から伝え聞いた。当然である。
プロジェクトが開始され、我が編集部は誌面とWEBサイトの内容を同期するため綿密にWEB制作会社と連携をとった。
それから数ヶ月後、タウン誌のWEB版がリリースされ、そのサイトを会社の皆で見てみることに。
編集部の誰かが言った。
「全然違くね?」
おそらく、その場にいた全員が同じことを思ったのだろう。
誌面とは全く違った世界観がWEB上にはあった。
商業的にWEBと雑誌はベクトルが違うと言ってしまえばそれまでだ。
それでもあまりにかけ離れた世界観に、皆言葉が出てこない。
そして悪いことに、この頃はどこもWEB媒体が大きく躍進し、紙媒体が力を失って激しく衰退していく真っ只中の時世だった。
週刊のタウン誌まるまる1冊と一般誌十数冊の数十ページずつ担当する編集ページを持っていた我が社だったが、今後仕事が減っていくことが目に見えている状況だ。
そこにきて長年制作してきたタウン誌がWEB上では全く違ったものに作り変えられてしまい、どことなく暗い空気が会社を覆ってしまった。
それから程なくして社内でWEB制作事業を開始するという話が社長からアナウンスされる。
まずは技術面でWEB制作のノウハウを学ぶべく、編集部からひとり、デザイン部からは私がWEB制作会社に出向することになった。
私はコーディングをひたすら習得し、編集部の人はWEB制作フローのディレクションを徹底的に学んだ。
半年の出向を終えた頃には実務レベルのスキルを身につけてたが、正直不安は残る。
そして私たちが会社に戻ると早速、WEBコーダーとプログラマを採用して社内に迎え入れ、WEB制作事業の準備は整った。
最初は他のWEB制作の下請けに入って、とにかく案件をこなしていく。
売り上げと内製費を考えれば正直赤字であるのは目に見えている。
しかし、社長は言った。
「この先、雑誌に未来はない。いつかWEB制作事業が柱になるだろう」と。
そして、それから遠くない未来にそれは実現する。
営業部を持たない我が社で、社長自ら営業に走り回り案件を獲得し続け、下請けのWEB制作会社として売り上げを積み上げていったのだ。
雑誌編集の売り上げを超えるのに1年とかからなかった。
社長の剛腕っぷりである。
案件も業績も右肩上がりだが新たに社員はとらなかった。
その代わり、たくさんのフリーランスと提携して、外注スタッフをとにかく増やしたのだ。
社内の人間はディレクションだけを行うことで、雑誌編集がWEBディレクターに転身する際の知識不足を補ったのだ。
知識の部分は全て外注スタッフに頼った形である。
最初こそトラブルも多かったが、皆の経験値が上がるにつれてトラブルは全く無くなっていく。
高度な技術を持たなくとも、営業力と企画力、編集能力だけでここまで出来るのかと感心したものだ。
こうして今でこそWEB屋となった我が社だが、元々は企画と編集屋である。
そこからまた新たな事業を企画するのにも長けていた。
自社でWEB媒体を持ち、メディア事業も立ち上げ、これも程なくして大きな収益を上げていく。
時代の変化がもたらした窮地を見事にチャンスに変え、業態を変更しながら成長した会社。
これは社長の決断と行動力が全てだ。
素晴らしい経営者のもとで仕事ができて本当に幸せだった。
さて、私が結婚したのは例のタウン誌のWEB版でごたごたしていた頃だったと思う。
当時付き合っていた人にプロポーズされて、なんとなく結婚した。
数年で離婚に至るわけだが、今思えば子供ができなくてよかったと思っている。
もしも子供を授かっていたら、この会社の激動と成長を経験できずに退職していたのではないだろうか。
それに、子供がいたら母の認知症看病にも向き合う時間が限られていただろう。
当時の私は子供が欲しかったし、できないことに気を病んで、不妊治療すら考えていた。
結局、高額な不妊治療は選ばなかったことで、今回母の認知症という衝撃的な現実を受け止めることができたように思う。
そう前向きに捉えたい。
そして冒頭に戻るが、私は会社を辞めることとなった。
社長は「お母さんのことは大変だと思う。だけど在宅でもいいから会社に残ったらどう?辞めなくてもいいようにサポートしていくこともできるから」と言ってくれた。
しかし私は、母の急な行動や予測できない何かしらで仕事に穴を開けるのが嫌だったし、恐らく大きな規模の仕事はできなくなるだろうからと社長の申し出を固辞したのだ。
社長はすぐに理解してくれて、
「わかった、北原がフリーランスで仕事するなら、お母さんの看病の負担にならない程度の仕事を選んで渡す。少なくとも収入面くらいは助けになりたいから遠慮なく頼ってくれ。お前はうちの功労者なんだからな。俺や会社のみんなを頼れよ」
そう言われた時にはもう涙が流れていた。
「ありがとうございます」
こう答えるのがやっとだった。
社長の優しさと心強さが、母の認知症で不安がいっぱいの私の心に大きく響いた。
ほんとうにありがとうございます。
そしてすぐに抱えている仕事の引き継ぎをして私は会社を退職。自宅で仕事をこなしながら母の面倒をみることになった。
これが私の決断だ。
「姉ちゃん、母さんのことなんだけど」
弟から電話があったのは母の認知症が確定してから3日後のことだった。
「介護っていうか、見守り?というか、まぁ放って置けないじゃん。でも俺も姉ちゃんも仕事あるし、その間どこかで見てもらえるとか、施設にいてもらうとか、それともまだ一人でも大丈夫なのかな、どう思う?」
もっともな疑問だし、もっともな心配だ。
私が会社を辞めて家で仕事しながら母さんを見るから安心しろと伝えると
「え?仕事辞めるの? 大丈夫なの? 姉ちゃんそれでいいの? 仕事上手くいってたじゃん」
私は「それでいい、もう決めたんだ」と言った。
「それならそれで安心なんだけど…。姉ちゃんばっかりに負担かけてごめん。でもありがとう」
弟は素直な子だ。もう40だけど。
「嫌な言い方にしかならないんだけど、お金のことだったら姉ちゃん心配しなくていいから。正直何にどれくらいお金かかるかとかわかんないんだけど、それと…言いづらいけど母さんの認知症が悪化して、俺らのこともわからなくなったり、老いで日常生活もできなくなって自宅介護が難しいとかなったら、そういう施設?老人ホームみたいな、そういうの結構高額だろ?そういうのは出せるから。それなりに稼いでるし、母さんの老後のこと考えてしっかり貯蓄してあるから。もちろんお金だけじゃなくて、可能な限りはできることをするから。俺のことも頼ってくれな」
ここまで一気に喋り、言葉が止まった。私の返答を待っている。
弟なりにいろいろ心配してくれていたんだろう。
また私の目から涙が溢れ、声を詰まらせながら
「全然嫌な言い方じゃないよ。お金のことだって不安だったし、一人で抱えるのも苦しいなって思ってたから。だからありがとう。何かあったら相談するから、その時はお願いね」
そう言った。
私は認知症の母と生きていく。そういう生き方を選択した。
そして、私には頼れる仕事仲間と弟がいる。
大丈夫だ。なんとかなる。
そう、これが今までの私の人生と、母が認知症を患ったことで変わっていく人生の話だ。
ここからが本番。
そう自分を奮い立たせる。
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