母が認知症だと気づいた日

エピソード

「アレ取ってちょーだい、アレ」

母はソファーでTVを観ながら台所にいるわたしに「アレを取って」と言った。

アレが何を指すのかなんてわかるはずもなく、もちろんアレの所在もわからない。

母は昔から固有名詞が出てこない。人の名前だって出てこない。

「角の家の、ほら、何さんだっけ?そこの奥さんにりんごを頂いたんだけど食べる?」

角の家の工藤さんは母と仲が良い。

工藤さんには、弟と同学年の息子さんがいて、まだ小学生だった弟が通っていた小学校の保護者会なんかで仲良くなったという。

その「工藤さん」が出てこない。いつものことだ。

子供を呼ぶときだってそうだった。

「ユイちゃんカズくんクーちゃん」わたしを呼ぶ時でも、弟と飼い猫の名前まで一息で一気に呼ぶ。

もしかして…とは思わない。だってこの時の母の年齢は40代後半。

昔から細かいことを気にしない、良く言えばおおらかな人だった。

そんな母が高齢者となったからといって、固有名詞や人の名前が出てこない程度では認知症という言葉が頭の隅に浮かぶことすらないのだ。

それが例え「あそこの、ほら、あの奥さんにアレもらったからアレする?」に退化しても、歳を取ればそうなるか…くらいにしか思わなかった。

むしろ「アレ」という言葉の万能性に感心したものだ。内容は全く意味不明だったけど。

ある日、家に帰ると食卓の上にポンカンだか伊予柑だかデコポンだか夏みかんだか、とにかく大きいミカンのような果物が5つ置いてあった。

これは…夏みかん?と母に尋ねた。

「なんだろうね」と訝しがっている。

買ったんじゃないの?と訊くと、「わからない」と答える。

この果物の種類もわからなければ買ったかどうかもわからない。

わからないという返答の意味こそわからなくて、ひどく混乱した。

じゃあ何故この果物が食卓の上にあるのか。

なにか巧妙なトリックに騙されているような感覚に胸がざわつく。

何が起こっているのか、状況を頭の中で整理していると

「どうしたの、それ」

と逆に母が私に訊いてくる。恐いから。

買ってきたにしろ近所の人にお裾分けしてもらったにせよ、入手経路そのものが忘却の彼方へと消え去るわけがないと、この時のわたしは真剣にそう思っていた。

いつの間にか食卓に召喚された、種類もわからない果物。

その果物の正体や安全性も気にはなったが、何よりこの状況こそがとてつもなく不気味だった。

次の日、母はその果物を食べながら平然と

「この伊予柑、甘くて美味しいわよ。あなたも食べる?」

と訊いてきた。

いらないとだけ答えて本質の疑問には触れまいと決めた。

それが伊予柑であり、美味しいのであればそれでいいだろうと。

私は気味が悪いので当然食べないのだが。

そうしてまた平穏な日々が過ぎていく。

あれから数週間後、決定的なことが起こる。

その日、仕事からの帰り道に母の姿が目に入った。

自宅近くのコンビニの駐車場に立っている。ただただ静止して立っているだけ。

コンビニで何か買い物でもしたのかと近寄ると、母は私に気づくなり「あなたどこ行ってたの?探したのよ」と心配そうな顔で私を見る。

「え?仕事だよ。今朝も行ってきますしたでしょ?」と答えた。

一瞬で何か得体の知れない不安が心を覆い尽くす。

「いつから探していたの?心配だったら電話すればいいのに」と言ったものの、訊きたいのはそこじゃないよと、頭ん中でアラートが鳴る。

おかしい、明らかに母の様子がおかしい。

うまく状況が飲み込めず、頭が回らない。

とりあえず家に帰ろうと母を促すと

「あなた帰り方わかるの?」

頭の中が真っ白になった。

「わかるよ、だから帰ろう?」

この言葉を発するのが精一杯だった。

帰り方がわからないの?とは訊けない。真実を知るのが怖かったから。

母はようやく安心したような表情を浮かべるが、逆に私の心臓は嫌な高鳴りを抑えられない。

私の斜め後ろについて歩く母。

母が母ではなくなってしまったような感覚が襲い、泣きそうになった。

そして、このときにようやく頭の中で「認知症」という言葉がはっきりと浮かんだ。

元々物忘れが激しかっただけに、母が認知症ではないか?などと疑う猶予期間もなく、それは突然降りかかってきた。

心の準備もできないまま。

出会い頭に交通事故に遭ったかのように。

母の認知症のことを、相談できるのは弟だけ。

こんなとき父がいれば…いたところで解決できるような問題ではないかもしれないが、心強かっただろうなと、少しだけ恨めしい。

父は私の花嫁姿も見ることなく、私が大学生の頃に病気で他界している。

三十路を目前にようやく結婚した私だが、結婚生活は10年も経たずに終焉を迎えた。

それから私はひとり実家に戻り、母と二人暮らしとなったのだ。

弟は高校を中退し、ペンキだか外装だか私にはよくわからないが、建築関係の現場仕事を始めて二十年弱。

今や独立して自分の会社を持って社員も抱えている。立派なものだ。

実家と同じ市内に一軒家を購入し、お嫁さんと子供1人の3人家族で暮らしている。

弟は地元の学校に通い、地元で職人になって、地元で独立し、地元の子と結婚し、地元に家を買った。

それは決して悪いことではないが、私の目には弟がとても狭い世界で生きてるように映って気の毒だとすら思ったこともある。

母に認知症の疑いが出た今では、弟が地元に残っていることに安堵した。

勝手なものだ。

私だって地元を離れて結婚したものの、結局は出戻って地元に居座っている。

地元はいいと改めて思った。

実家の家は父が建てた一軒家。母が1階で私が主に2階に陣取って暮らしている。

母が寝静まったのを見計らって弟に電話をかけた。

先日の果物の件、そして今日あった出来事を弟に話すと

「認知症だな」

意外にも弟はあっさり母を「認知症」だと判断した。

認知症という言葉をあえて出さずに話をして、弟の反応を見ようとした私がバカみたいだ。

弟が冷静でよかった。

私はネットで認知症について色々調べてみたが、認知症の人に病院で検査を受けさせるのは難しいらしい。

当事者は認知症であるはずがないと頑なに検査を拒否する人が多いとか。

それでも私は正直に母に話をすることに決めた。

母の性格からして、変にごまかして検査を受けさせるよりも誠実に話したほうがいいだろうと。
そして、それは正解だった。

お母さんは認知症かもしれないから検査を受けてほしい、もし認知症だったら早く治療を始めて少しでも進行を遅らせたいと真っ直ぐにお願いすると

「あら大変、認知症だなんて。やだわ。あなた覚えてないかもしれないけどおばあちゃん(私の祖母)も認知症だったんだから。あれ大変なんだから。どうしよう、認知症だったら。困ったわねー」

と、どこか他人事のような反応をしている。

内心では診察を拒否されたらどうしようという不安もあったからひと安心だ。

善は急げということで、まずは母のかかりつけ医に診てもらおうと、私も付き添って近所の開業医の先生に相談に行った。

長谷川式簡易知能評価スケールでは23点。

まだ認知症とは言い切れないが詳しく診断したほうが良いだろうと先生は言う。

地域では大きな病院の脳神経内科の先生に紹介状を書いてくださった。

後日、紹介された病院に向かう途中

「アタシやっぱり認知症かね?恐いわー。そうだったら早く治療したい。ボケたくないのよ」

母の声は小さかった。

病院について受付をし、結構な時間待たされて、いざ診察。

問診や数種類の筆記や実技を伴ったテスト、血液検査、MRIなどの検査を行った結果…

アルツハイマー型認知症であった。

脳の海馬付近に萎縮が見られるとのこと。

もはやここまできたら早く認知症の確定診断が欲しいとまで思っていた私は、ハッキリとキッパリと「認知症」と言われて、何故か少しだけ安堵した。

中途半端な状態でモヤモヤしているだけの時間を長く過ごすよりよっぽどいい。

母は認知症なんだと決まってしまえば私のすべきこともシンプルになる。

スッキリした私とは逆に、元気がない母。

そりゃそうだろう。祖母の認知症を「大変だった」と言った母が、今度は自分がそうなるのだから無理も無い。

「母さん、こんなにしっかりしてるのに認知症だなんて、本当かな」

消え入りそうなか細い声だった。

大丈夫だよ、薬を飲んで今以上に悪くならなければずっと今のままでいられるよと、気休めのセリフしか出てこない。

「そうだよね。母さん前より頭が良くなるように勉強しようかしら」

言葉は前向きだが、不安そうな表情は消えることはなかった。

私もスッキリしたとは言うものの、同時にたくさんの不安と向き合わなければならないのも事実。

認知症の母との向き合い方や、仕事を続けられるかどうか、そしてお金のこと。

考えればキリがない。

だからといって悩んでいても仕方がない。認知症の母を抱えながら、出来ることと出来ないことをきちんと洗い出す。

そうすれば、自分の願望よりも先に現実が勝手に取捨選択をしてくれる。

出来る出来ないではなく、すべき事とそうでない事、可能な事と不可能な事。

もはや選択権はない。

わかった。母に寄り添って前に進もう、進むしかない。

そんな感じだった。

この辺の出来事は、本当に今でも昨日のことのように思い出すと同時に、随分前に起こった事のようにも感じる。

全くいい思い出ではないのだけれど。

これが我が家に認知症が訪れた瞬間のエピソード。
長い闘いの始まり始まり。

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